諏訪赤十字病院 名誉院長 島田 寔 著

みんなの健康読本 バセドウ病余話「恩師丸田教授の炯眼」より抜粋

1950年代、日本の「甲状腺御三家」と呼ばれ、甲状腺の病気を専門に診療しながら研究を進めていた診療機関があったことは、以前にもお話しました。

今回は、バセドウ病に関する余話として、当時の「御三家」の重鎮でわが恩師の信州大学・丸田外科学教室創始者、故丸田公雄教授の偉業について述べてみたいと思います。ただ誌面の都合もあるため、ここでは今なお感銘している素晴らしい「炯眼」についてのみ紹介します。

東北大学.関口外科で外科学を研さんされた丸田教授は、なかんずく日本における甲状腺学の樹立.発展に貢献された日本甲状腺学の創始者の一人です。信州大学の開学を契機に第二外科教室の初代教授に招へいされ、就任されました。

丸田教授は東北大学時代からバセドウ病の病態生理、治療について集学的、ありとあらゆる手段や方法に思考を巡らされ、その結果「放射性ヨードによる治療」という発想に行き着かれました。それも、この発想が戦前の今から六十年前のことですから驚きです。
 
時は第二次世界大戦の最中、科学に関心のある人は記憶をたどってみてください。そのころ、日本でも原子爆弾開発の研究は進められていたのですが、当時日本の科学のメッカとも例えられた理化学研究所が、日本で初めてサイクロトロン装置を組み立て整備しました。

この装置は、放射性同位元素の生産が可能で、原爆の開発にもつながる当時としては最新鋭の近代科学装置でした。このニュースは日本人、ことに科学者に、何となくではありますが大きく、純粋な夢や光を感じさせてくれたものです。

丸田教授もこのニュースを聞くや、いち早く、欣喜雀躍してかねてから考えの奥に温めていた「放射性ヨードによるバセドウ病の治療」計画のアイデアを携え、放射性ヨード生産を依頼しようと理研の門をたたいたのです。

しかし、残念ながら理研はこのアイデアの「非凡な突飛もない、素晴らしさ」に気づかれなかったようで、丸田教授の“ノーベル賞級”のアイデアには、ひとかけらの興味も示されなかったそうです。

おそらく、放射性ヨード(放射性同位元素は現在でもかなり高価)などの事情もあったと推測されますが、丸田教授の無念さや、いかばかりであられたか。このエピソードを聞いた私も、歯をかみしめ涙を飲みました。

ちなみに、理研が組立整備したわが国最初のサイクロトロン装置は、日本の核開発への利用を恐れ、戦後いち早くアメリカ進駐軍によって無惨にも太平洋の奥深くに廃棄されたのでした。

前澤外科内科クリニック院長の母方の祖父であり、前澤医院時代から中央線、飯田線を乗り継いで手術の応援に来駒されていた。